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2009-10年度RI第2630地区
ガバナー 岩本 忠


  学生時代に「誰がために鐘は鳴る」という映画を見ました。1935(昭和10)年頃のスペイン市民戦争で谷間にかかる交通の要所の橋を爆破する作戦のドラマです。ヘミングウエイの原作で題名は「For Whom the Bell Tolls」です。結局、橋は爆破され作戦成功なのですが、義勇軍で参加した主人公は現場脱出の折、タイミングのいたずらにより彼女の眼前で不運な死を遂げます(これがヘミングウエイらしいところですが)。教会の鐘が町の空に鳴り響きます。戦闘の死者を弔うのですが、「一体、これは、誰のためなのか?」というのです。これが「for whom(誰のために)」です。古典文法ではこれを「利害・関与の与格」といいます。
この語句の表現法が、英語専攻生のわたしには、斬新に思えて、いつまでも心の隅に残っていました。英語の語形は実に単純です。それが複雑な古代ギリシャ語(前400年頃)を学び、動詞行為が向かう方向を能動態・受動態だけでなく、中動態という語法で特有の表現することを知りました。「略奪者タチハ自ラノ為ニ収穫物ヲ取リ、運ンデイタ」という表現で、自らの為にという語句は無く動詞の活用でその意味を示しているのです。日本語もまた「してあげる」と「してくれる」は「する」動作行為が誰のために為されるのかを示すものであることに気づきます。
言語は無意識に発することが多いものです。日本語の私たちはこの動作行為の方向性にあまり気づくことなく日常の言語生活を送っています。ところが、ソクラテスやプラトーンたちは、その方向性の表現が文法化された言語を日常使っていたのです。プラトーンの作品を読むとソクラテスの言動に「で、君はそれを誰の為に行うのかね」「その存在は誰の為にあるのかね」という表現に出くわします。日本語の「あげる・くれる」は発言者(にしてくれる)と話し相手(にしてあげる)の方向のみですが、「誰の為に」となると、第三者への方向性も引き出されて表現の世界が広がります。
言語の構造と思考の構造とは別物だとよくいわれますが、どの言葉で寄せられる情報であっても、気を付けて分析すれば、結構理解が深まるものです。要は、知性と頭脳の訓練次第です。
ロータリアンである私たちは、自分の行為が誰の為になされているのか、自分は得をして相手をあるいは大衆を陥れる行為をしてはいないか、常に注意する必要が有ります。また、世の中にはそれを看破する人が居ることにも気づくべきです。
相手が損を掛けないとなると、人は安心しその人を信用します。この蓄積が信頼につながり、親交を重ねることになります。親睦はそのような信頼の上に成り立つものであり、損得のレベルより人格品位の段階にまで昇華するのです。6月は親睦の月間です。(完)
『月信』一年間のおつきあい、有り難うございました。